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鳥獣と家畜のあいだ—近代日本の毛皮産業と牽引力

 このページは第24回「野生動物と社会」学会大会(九州大会)2018-11-24「1915–1945年の毛皮産業による移入動物と在来種の転地飼育」および同25回「野生生物と社会」学会大会(金沢大会)」2019-11-23「日本の遠洋オットセイ猟業の資料的裏付け」を再構成したものです。
 本研究の課題名「鳥獣と家畜のあいだ」は戦後のミンク養殖業の関係者からの聞き取りからヒントを得た。曰く「毛皮獣というのは家畜でもない、野生動物でもない、どちらでもないところがこううまくいく」。毛皮獣は家畜伝染病予防法に含まれず、農林水産省での位置付けは「その他の毛皮獣およびミツバチの飼養」といった雑物扱いである。
 なお本研究は日本学術振興会(JSPS)科学研究費補助金「鳥獣と家畜のあいだ―近代日本の毛皮産業と牽引力」(基盤研究C: 2018–2020、課題番号18K00266)の助成を受けた。

毛皮産業の業界史と行政的位置

 近代日本の毛皮の産業利用は、当初は野生動物を捕獲して毛皮を得ることから始まり、なかでもイタチは「Japanese mink」として知られ北米ではコートなどの上着が相当数販売された。その後は野生毛皮は資源が枯渇、毛皮の獲得は養殖に移る。毛皮動物の養殖は1930年代から本格化する。おもな対象動物はキツネ、タヌキ、ウサギの3種で、それぞれ違った利用目的があり産業の経過も異なっていた。これらの養殖は太平洋戦争の激化とともに終わりを迎える。ただしウサギに関しては飼育個体や飼育の習慣が戦後に持ち越される。
 昭和初期から終戦に至る1930–1940年代の毛皮生産、とりわけウサギの飼育は軍需目的が強調されてきた。それは事実であるが、飼育を担った農家や農林省からすれば世界的な不況のもとでの有力な副業としての役割があった。軍需品や軍の関与といった場合に、強制的な事業従事と思いやすいが、ウサギの飼育と毛皮供出は農家側にもメリットがあった。この年代の毛皮の産出について府県統計が残るのは兎皮だけである。当時は毛皮を「貴重毛皮」「高級毛皮」と「実用毛皮」と区分けすることが見られた。この実質的な意味は実用毛皮は軍需品でウサギ、ヒツジ、イヌなど主として草食動物の毛皮であり、貴重毛皮は服飾用のイタチやキツネそしてタヌキなどの肉食動物の毛皮で輸出品という認識であった(三島康七. 1937. 毛皮)。
 毛皮産業の主務官庁は野生動物の毛皮を利用した時代から実質的に農林省であり、鳥獣は農林省山林局、海獣は農林省水産局が担当した。余談であるが、鳥獣は農林省山林局が用いてきた行政用語であり、海獣はそれに対する水産局の用語と考えている。

養狐養狸養兎

右:岡山県養狸協会 浅口郡里庄 昭和12年(1937)年賀はがき
左:樺太庁中央試験所養狐場の絵はがき


 キツネは樺太と北海道そして千島列島で企業的な養殖がおこなわれた。1938年の記録では樺太と北海道で約9割を生産し、次いで群馬3.9%、福島1.5%だった。提唱者は渡瀬庄三郎とされ、それを裏付ける記録も多数存在する。事業の牽引者は樺太庁や農林省水産局で、カナダのプリンスエドワード島から優良品種を輸入し、技術研究をおこない民間事業者に種キツネと飼育技術を普及した。農林省水産局の事業は、当時、直轄地としては民間人の立ち入りを禁止していた中部千島の島々でおこなわれていた。本州では樺太で飼育実務担当者だった民間人が気候風土がよく似た群馬県吾妻郡北軽井沢で事業を興し、新規参入者も現れ北軽井沢は文学作品にも現れるキツネ養殖地として知られるようになった。

1938年2月現在のキツネとタヌキの民間養殖場数(宇仁義和. 2018. 1915–1945年の毛皮産業による移入動物と在来種の転地飼育. 第24回「野生生物と社会」学会大会ポスターより)

 タヌキは産業化が進まず、個人レベルでの飼育が多かった。飼育地域は偏りがあり、福島、新潟、岡山県で飼育が多く、その県内でも飼育家は福島県伊達郡、岡山県上房郡や浅口郡など特定の地域に飼育場が集中した。毛皮は北海道産のものが高価で取引され、本州でも北海道からエゾタヌキを仕入れて飼育した。本州産個体を北海道に移動し、エゾ狸と偽り本州の飼育家に販売した例も伝えられる。1940年には毛皮価格が暴落した。

北海道家兎研究所の要覧より
 ウサギは毛皮獣で唯一府県統計に表れる。統計記録は1926(大正15/昭和元)年に始まり、戦後数年まで。軍需品として知られるが、不況下の農家救済策の副業として農林省が奨励した。毛皮やその製品を「高級毛皮」と「実用毛皮」に二分することがある。素材でいえば高級毛皮はテンやミンク、オットセイ、実用毛皮はウサギが代表格である。前者は服飾品、後者は軍需品やファッション性の低い防寒具、山岳用品などの製品に用いられる。

詳しくは
宇仁義和. 2023. 日本の養狐事業と養狸事業の特徴と展開. オホーツク産業経営論集, 31(2): 1–14. PDF 2.4 MB
宇仁義和. 2021. 近代日本の養兎事業1戦前編:副業と軍需物資の間で. オホーツク産業経営論集, 30(1): 45–51. PDF 1.4 MB

遠洋オットセイ猟業

右:千葉県館山市の順天丸遭難碑
左:1938年2月現在のキツネとタヌキの民間養殖場数(宇仁義和. 2019. 日本の遠洋オットセイ猟業の資料的裏付け. 第25回「野生生物と社会」学会大会ポスターより)


 一般にはおなじ免許で捕獲可能であったラッコの名称で知られ、事業はラッコ猟、船舶はラッコ船と呼ばれ、文学作品にも登場する。伝世したオットセイの毛皮を「ラッコ皮」と誤認して保存する例が見られる。おなじく遠洋漁業奨励法の補助対象となり哺乳類を捕獲した汽船捕鯨と比較すると、汽船ではなく木造の帆船を用い、船舶は国内建造で、事業者は個人または小規模会社で北海道から和歌山県までの各地に分散して存在したという特徴があった。1911年に発効した膃肭獣[おっとせい]保護条約で消滅したが、同条約は太平洋戦争が始まる1941年に破棄されオットセイの海上捕獲が復活した。終戦後はGHQの調査の名目で海上捕獲が再開された一方、密猟が黙認状態であった。その後、1954年に北海道の南部で一斉摘発がおこなわれ、日本のオットセイ猟は終了した。
 オットセイ猟の実際については当事者による報告や回想が残されている。過去に発表された北洋での武勇伝は、繁殖島を持つ国からすれば違法操業であり、北米の新聞には日本猟船の海賊行為が掲載され、カナダでは日本船を「害虫」呼ばわりする聞き取りが残されている。
詳しくは遠洋オットセイ猟業

ミンク養殖業

北海道厚岸町太田のミンク飼育場(国土地理院空中写真閲覧サービス CHO787-C8A-7 1978年7月撮影)

 アメリカミンクの飼育は戦前にも試行されたが産業規模の実用化には至らずに終わる。北米には「Japanese mink」のコートが現れるが野生イタチと思われる。世界的に見てもミンクの養殖が大規模になるのは、北米で1930年代に出現した突然変異による華やかな毛色のミューテーションミンクの品種固定に成功して以降、おおよそ1940年代である。日本でのミンク養殖が本格化したのは1952(昭和27)年以降の北海道農務部の産業政策による。間もなく大手商社が子会社を作り事業化、それが呼び水となり大手水産会社の参入につながったという。捕鯨会社にすれば鯨肉をミンクの餌に輸出していたが、それより直に飼育した方が利益になるという判断もあったようだ。飼育の技術導入には北米の日系人を顧問に迎えることや、戦前の養狐事業の名人の智恵を借りるなどして戦後のミンク養殖の実務的な技術定着を実現した。
 海外先進地の日系人を媒介に現地企業から技術導入を進め、海外視察や実地研修に人材を派遣してその知見を帰国後に共有する形態で技術移転を進めるという、近代の日本に普遍的な産業発達の形態であった
詳しくは
「北海道ミンク新聞」重要記事 「日本ミンク産業の歩み 戦後編」
宇仁義和. 2021. 北海道のミンク養殖業の形成と消滅までの過程—網走地域を中心に. オホーツク産業経営論集, 30(1): 1–27.(pdf 2.6 MB)

移入動物の記録

左:三島アルバム「ヌートリアと鯉の養殖場 浜名湖」 右:毛皮日本1940年3月号裏表紙

 戦前の段階で毛皮動物は移入飼育が各地でおこなわれた。日本の主要四島に外部から移入された毛皮動物はタヌキやキツネのほかに、マスクラットとヌートリア、実際の種は検討が必要であるがフィッチ(ドイツ貂)やミンクがあった。ヌートリアは1942年の記録で全国で1427頭で、多い府県は順に大阪、静岡、奈良、香川であった。広告では福島県飯坂温泉のヤマキ毛皮獣種畜場が本邦最大の養殖場とするものが見られる。イタチの飼育は1938年2月に全国で148事業場、千頭余りの飼育頭数とされる。フイツチと称したドイツ貂やミンクの飼育も始まっていた。イタチのなかまの名称は混乱があり、実際の飼育種や産地は詳しく検討する必要がある。

寺田弘旧蔵毛皮文献コレクション「寺田文庫」

 寺田弘旧蔵毛皮文献コレクション「寺田文庫」とは、寺田弘氏(1933–2003)が生涯をかけて収集した毛皮関連の書籍や雑誌、写真、文書などの文献資料である。寺田氏は新潟県水原町(現・阿賀野市)の出身、北海道大学獣医学部を卒業、日魯漁業(後に日魯毛皮→ニチロ毛皮)網走ミンク飼育場に勤務した。長く場長を務め、業務として養殖や鞣しの技術情報を収集したほか、出張を重ねて国外市場にあたり、毛皮の歴史や文化の紹介に努めた。戦後に興ったミンク養殖業の中心的存在であり、毛皮産業の内部では文化面のリーダーであった。また、寺田周史の筆名で文芸活動をおこない、フィンランドなど外国との交流にも熱意を持ち、アイヌ資料の収集でも知られる。
 毛皮文献コレクションは業務の参考資料として購入したと思われる書籍や雑誌、社内研修用として自らの指示で編集させた資料や業界の研修資料のほか、個人に集めた古書類、そして戦前の毛皮産業の技術面での指導や実務を担当し、後に網走ミンク飼育場の顧問として迎えた北海道帝国大学教授の犬飼哲夫(1897–1989)や農林省毛皮獣養殖所技師を務めた三島康七(1906–1986)の旧蔵資料、広島大学教授の大泰司諭(1907–1999)によるドイツ語文献の翻訳ノートが含まれる。
 寺田弘氏自身の著作。長く使い続けた寺田周史のペンネームで兄が経営する舟蕃舎(東京都台東区浅草橋5丁目24-2)から刊行された「毛皮 その種類と背景」(寺田周史 1977)がある。
詳しくは寺田弘旧蔵毛皮文献コレクション「寺田文庫」
寺田文庫目録 エクセルデータです
寺田文庫目録(研修資料) エクセルデータです

その他

アザラシ毛皮と海獣関係の報文
宇仁義和. 2009. 第2次世界大戦後の日本におけるアザラシ産業. BIOSTORY, 11: 68–80. (画像PDF 4.3 MB)
宇仁義和. 2006. 第二次世界大戦以前の千島列島でのトド Eumetopias jubatus 捕獲記録. 知床博物館研究報告, 27: 47–51. (斜里町立知床博物館公式ウェブサイト/PDF 852 KB)
宇仁義和. 2004. 知床半島にゼニガタアザラシの繁殖場はあったか. 知床博物館研究報告, 25: 7–12. (斜里町立知床博物館公式ウェブサイト/PDF 940 KB)
宇仁義和. 2004. 北海道の海獣観察プログラムの現状と課題. 知床博物館研究報告, 25: 1–6. (斜里町立知床博物館公式ウェブサイト/PDF 1.4 MB)
宇仁義和. 2001. 北海道沿岸の近代海獣猟業の統計と関連資料. 知床博物館研究報告, 22: 81–92. (斜里町立知床博物館公式ウェブサイト/PDF 747 KB)

北海道みやげとして人気があった「ミニアザラシ」
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