「日本ミンク産業の歩み 戦後編」|鳥獣と家畜のあいだ—近代日本の毛皮産業と牽引力

北海道ミンク新聞「日本ミンク産業の歩み 戦後編」

1 118号 1972-5-20

 ミンク産業の戦後史は昭和27年に始まる。O道農務部長が道庁職員として戦後初の渡米し3か月間視察した。そこで女性がミンクのコートを羽織っているのを見かけ、正札1万ドルと知る。田中俊文知事に促され視察成果からいくつか事業の予算化を目指したが財政難を理由に査定落ち、残ったのがミンク種畜の導入だった。予算案は300万円、うち半額は国庫補助を予定した。O部長は農林省と折衝したが理解は得られず、道単費150万円を昭和28年度当初予算に計上した。
 種畜の買い付けは畜産課のKS技師(後農務部長)が牛馬の種畜買い付けに渡米するのでミンクの購入も兼務した。ミンクの購入は、ソルトレーク市でミンクを飼育している日系一世のチャールス手嶋三郎氏からおこなった。10月にサファイア、ダーク、パステルの3種28匹と民間委託分[代理購入の意味か]22頭が羽田空港に到着、O部長が出迎え横浜の動物検疫所で16日間の検疫がおこなわれた。
 ミンク飼育には三井物産(当時は第一物産)の子会社、東邦ミンクがあるが、始まりはO部長が東京滞在中に第一物産のM常務にあって話をしているうちにミンクの話になったことがきっかけだった。当時、電源開発総裁を務めていた高碕達之助もM常務に企業化を勧めた。東邦ミンクは昭和29年に設立され、札幌の藤の沢に飼育場を開設、同年孕み40頭を輸入、翌30年1月に滝川種羊場からH氏を主任技術者に迎えアメリカに派遣、手嶋氏の飼育場で10か月間研修をおこなった。孕みミンクは藤の沢の高台にあるSY氏の飼育場に収容、東邦ミンクの飼育場はその下に建設した。初代場長はHT氏だった。孕みミンクは順調に出産し、30年の種畜は雌雄あわせて260頭に達した。第1回輸入孕みミンクの貸付先は表として掲載されている。
 三井物産がミンク養殖に乗り出したことは追い風となり、大手水産会社の参入につながった[詳しい経過や高碕の助言は記載なし]。日魯漁業と日東捕鯨34年に着手、日東捕鯨はノルウェーと合弁の日東スリーエフを設立、翌35年に大洋漁業がアメリカと合弁で大洋アメレックスを設立、その傍系[子会社]の函館公海漁業、遅れて北海道漁業公社も北海道ミンク株式会社を設立、日本水産も釧路ミンク株式会社の名で着業した。道外では日本近海捕鯨が昭和37年に宮城県蔵王で飼育開始、道内の水産会社で巻き込まれた[参入や着業]のは村上水産、高木商店、根室水産、柴田水産、平井漁業部、松田水産、などがあった。また、クレードル興産が東急との提携で日本ミンク株式会社を設立、34年には鹿部村営ミンクが着業、36年に名古屋の繊維メーカーのシャイン工業がシャインミンク株式会社を発足させた。米の配給卸の宗谷米穀も参入した。
 個人経営の飼育場も、紋別をはじめ、空知、留萌、道南、石狩で始まり、ミンクのいない支庁がないほどに普及した。36年頃には道内飼育場は約500、飼育頭数はピークで17万頭といわれるまでに至った。

2 119号 1972-6-20

 道は「北海道物品貸付および譲渡に関する条例」に基づきミンク輸入に先立つ昭和28年8月25日付けで北海道規則第170号「北海道ミンク貸付規則」を公布した。借受者は、1)養殖毛皮獣の飼育経験者でミンク増殖に協力する熱意を有する者、2)資料の入手が容易で永続的飼育可能な環境を有している者、であった。ミンクの貸付は、雄1頭に雌2頭を1トリオとして3年間無償とし、貸付ミンクから生産された子畜2トリオを生産第1年ないし次年中に納入[返還]するという「子返し貸付制度」であった。これは乳牛で先に実施されていた制度である。昭和28年輸入ミンクの分娩調べの表あり。
 第1回輸入ミンクの受領担当者はST技師(現・札幌畜産公社)で、戦前からの飼育経験者の鈴木与志雄氏(現・日魯毛皮嘱託)で16日間二人で四畳半で暮らした。
 道畜産課は昭和29年2月19日付け「ミンクの問い合わせに対する回答」を公表、種獣や毛皮の価格、飼育管理や飼育舎、貸付計画、飼育先などを記している。餌については、開眼する生後2週間頃から与え、オートミールと野菜、肝臓を1対1対1としたものに山羊乳か牛乳を混ぜたもの、成長後は魚類(白味で脂肪の少ないもの)魚65%、肉類(馬肉)20%、蔬菜または果実5%、穀類輸入飼料10%、屠殺は生後7か月とする。

3 120号 1972-7-20

 昭和30年はピーク時に飼育数2千頭、東邦ミンクが260頭、鍋谷千代蔵氏が47頭を輸入、後に特殊密集飼育地帯となった紋別地域に2つの足がかりができた。第1回輸入の確実な資料を入手し実際の輸入頭数は48頭と判明、道畜産課I主事の28年の日誌メモを入手、両者ともに掲載した。
 28年5月30日は北海道ミンク協会が結成されている。会長:O道農務部長。30年8月31日には北大農学部で協会主催の第1回北海道ミンク共進会が開催された。審査員には犬飼哲夫教授やチャールス手嶋三郎氏などがあたった。
 「今は亡き先達を偲んで」として5名について簡潔に記す。菊池留吉、安藤日出雄、佐藤理之輔、柳沢善作、梶原菊太郎の各氏。

4 121号 1972-8-20
 「写真特集 ミンク農協10年」。写真とキャプションのみで1ページ。38年9月9日「網走地方ランチミンク農協」が解散。

5 123号 1972-10-20

 昭和29年の道のミンク種畜購入費は前年同様の140万円であったが種畜の高騰で購入できたのは30頭だった。初輸入となったトパーズは雌としては最高額の8万円、ほかもダーク雄64000円、同雌40000円、ロイヤルサファイア雌50000円、ロイヤルパステル雄64000円、同雌40000円。道による種畜ミンクの輸入は5年計画であったが2年で打ち切りとなり、後は民間による輸入となった。
 28年5月30日に結成された北海道ミンク協会は40年8月に日本ミンク協会と合併し、社団法人日本ミンク協会が設立された。北海道ミンク農協は38年7月に設立されている。
 日本からの養殖ミンクの初めての対米輸出は30年で2回にわけておこなわれた。数は534枚で、うち289枚が東邦ミンクからだった。翌31年は949枚でうち東邦ミンクが802枚と倍増した。取扱いはすべて[おそらく2年とも、明確な指示代名詞なし]第一物産札幌支店だった。東邦ミンクは凡て委託販売、それ以外の147枚のうち評価額で第一物産が買い取ったものが91枚、残り46枚は生産者の希望で委託販売となった[委託販売の意味がわからない]。30年12月20日に来日中の手嶋氏が評価をおこなった。第2次輸出は31年6月で出荷は49枚、東邦ミンクのH氏が評価し全量を第一物産が買い取った[30年度は少なくとも翌31年6月まで継続]。
 「これら米国に輸出された毛皮は全部ナメして売られたが、その詳細を知る資料は残念ながら入手していない」[鞣してから米国に売ったという意味と判断するが、米国が輸入後に鞣して販売したとも読める]。

6 124号 1972-11-20

 「飼育籠の完成まで」、小樽、加藤鉄網株式会社前社長談。

7 125号 1972-12-20

 ミンクの飼育の課題のひとつは餌にあった。当時は米国直輸入の方式であったので、飼料の20%に馬肉を用いていた。ところが北海道では馬肉の生産が縮小し食用馬赤肉を与えることはコスト高を招いていた。そこで東邦ミンクは藤の沢飼育場で鯨肉を用いることを試行、昭和33年には全面的に馬肉から切り替えた。「これが転機となって」33年に現在の鹿部村営ミンクが村民の参加による生産販売事業協同組合の形で設立され、34年に日魯漁業が網走に直営の飼育場を開設、35年には日東スリーエフが浜中村に飼育場を開設した。また同年は大洋漁業捕鯨部が太田村で、貿易部が米国アメリックスと合弁の大洋アメレックス株式会社により鶴居村で飼育を開始した。
 34年1月14日は皇太子との成婚を前に納采の儀で正田美智子氏がサファイアミンクのストールを着用し、一般の認知が高まった。同年は道南の鍋谷と鹿部でジステンパーが発生し5500頭が斃死した。  35年に輸入した種ミンクは11050頭という空前絶後の大量となった。35年の飼育数もピーク時で4万頭と推定されている。この推定値は三井物産札幌支店と東邦ミンクの両者で発行された「ミンク情報」による。表を掲載。
 「ミンク情報」では現状分析と将来の見通しを掲載、1)日本の毛皮の品質は米国カナダに遜色ない、2)北欧よりもむしろ高品質だが、サイズが小さい、3)数量のまとまった(50–70)種類品質が確保が課題、としている。現在の課題は、4)現状では低価格低品質で輸出しておりその評価が固定化される可能性、5)国内の販売経路を一本化して鑑定格付けをして輸出すること、つまりはブランド化と具体的な方法としている。参考事例として米国市場で好評の北欧のSAGA、アメリカのEMBA、UMPA、GLMA、カナダのCMBを挙げる。

8 125号 1973-1-15

 29年に東邦ミンクから派遣されアメリカで10か月の研修をおこなったH氏のレポート。研修先はソルトレーク市の手嶋氏の飼育場。


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