遠洋オットセイ猟業|鳥獣と家畜のあいだ—近代日本の毛皮産業と牽引力

遠洋オットセイ猟業

「ラッコ猟」「ラッコ船」と呼ばれた遠洋オットセイ猟業

アラスカ州シトカに停泊するオットセイ猟船「開盛丸」
「ラッコ船」
 オットセイ猟業が盛んだった頃の事業の呼び名は「ラッコ猟」、猟船は「ラッコ船」と呼ばれていた。これは明治以降の日本の法令ではラッコとオットセイが同一の法律で扱われることが多かったことによる。現在も1912(明治45)年に公布施行され改名されるも、両種の捕獲や製品の製造販売を禁止制限した「臘虎膃肭獣猟獲取締法」[らっこおっとせいりょうかくとりしまりほう*]が有効である。ネット検索でも「ラッコ船」は5千件以上ヒットする。
 ラッコ船の呼び名は広く用いられ、そのためかオットセイの毛皮をラッコ皮と呼んで保存してきた例もある。遠洋オットセイ猟業は日本で最初に成功した遠洋漁業であり、農商務省による関連の報告が複数作成され、そのなかには浪越という結局は虚言だったが大密猟物語も出版されるなど、注目を集めた漁業だった。
 遠洋オットセイ猟業は継承企業もなく忘れられた完全に過去のできごとである。この漁業が華々しく操業していた当時は危険で厳しい仕事の代わりに高収入で、母港が都市部から離れた辺地であったことも加味され、乗員の陸での派手な振る舞いが注目を集めた。ラッコ船の名は、彼らの羽振りの良さとともに記憶されることになったのだろう。

*法律の正式名称は漢字だけであり、読み方の正式な定めはない。「おっとせい」と読むことが多いが、近世以来使われてきた文字は膃肭臍で雄の生殖器を指す。膃肭獣を「おつとじゆう」とルビを振ったものもある。

事業主体は地方に散在
 遠洋オットセイ猟業の事業主体は地方に散在していた。それも三陸地方や房総半島、紀伊半島など現在では交通不便な遠隔地に所在していたことが特徴である。この猟業は遠洋漁業奨励法の補助を受けており、事業主の名前や船名が国の報告書に記載されるため記録が残りやすい。補助対象の船舶は汽船または60トン以上の帆船であったので必然的に船舶はそれ以上の大きさとなった。

木造帆船スクーナー
 オットセイ猟業に用いられた船舶は、母船が2本マストに縦帆を備えたスクーナー型の75–90トンの木造帆船、そこに木造手漕ぎボートの猟船を数隻積み込んでいた。写真に残る猟船は洋式と和船の両方が見られる。母船のスクーナーの造船所のひとつが三重県伊勢市で近年まで操業していた市川造船所で、第二房総丸の図面が現存し、寄贈された伊勢市が保存している**。
**伊藤政光. 2015. 造船図面を読む愉しみ〜大湊造船資料で知る技術と時代〜[日本船舶海洋工学会デジタル造船資料館ウェブページ「伊勢の造船資料を継承する会」での講演関連資料]

遠洋オットセイ猟業の様子

「楽水」31巻に連載された「思ひ出の臘虎船」
「ラッコ船」聞き書き
 遠洋オットセイ猟業の様子は水産雑誌に見ることができる。「楽水」31巻(1, 3, 4, 5号)に連載された「思ひ出の臘虎船」(潮路 1936)は、千葉県舘山を根拠にした房総丸のハンターであった錦織茂三郎の聞き取りである。おそらく複数の航海の経験をまとめたものである。
 連載記事をまとめると房総丸は99トンのスクーネルで、乗員は船長1、ナビゲータ1、ハンター10人、水夫48人、賄方2人で[足すと66人]、10隻の猟船「シーラボート」[シイラボートとも]を積み込んでいた。出航は11月中旬、航海期間は10か月、水夫やハンターは出航前に予定収入の7分を前貸しとして渡され料理屋では鳴り物入りでの前景気が1週間あまり続いた。1月4日åにサンフランシスコ灯船を確認して針路を北へ変え、捕鯨船の根拠地カナダのクニンチヤイライで水を補給。英語が話せるのはナビゲータと賄長の2人のみ。4月中旬にアリューシャン列島のウニマック水道に到達するように航海を続ける。ラッコとオットセイは4月下旬から5月にかけアメリカ西岸からプリビロフ群島に向かうためにウニマック水道を通過する。そこで5月一杯は水道で待機して狙い撃ちする。また水の補給にウニマック島のダッチハーバーに寄った[ダッチハーバーはウナラスカ島]。
 その後はプリビロフ諸島での密猟を目指す[記述は明確ではない。6–7月はプリビロフで猟をすると読める。話者か筆者が掲載を避けたのかも知れない]。8月初めにコマンドルスキー島に到達。着くと日本を3–4月に出港して山陸[ロシア沿海州か]から千島にオットセイを追ってきた30–40トンの小型オットセイ船が先に来ていた。コマンドルスキーではロシア監視員の銃撃のなか上陸して捕獲した。二百十日[9月1日頃]から5日目で[と読める]色丹島を通過、翌日頃に厚岸に入港した。多くの乗員は厚岸で一度下船し料理屋で宴会となる。再出港して舘山へ向かい、舘山では湾内汽船に曳航されて着岸、航海終了となる。
 猟の様子は、水切りの良い速力があり外板を鏡のように白ペンキを塗ったシーラボートを用いる。このボートは前身後退が自由でクラッチにも麻のマットを被せて音がしないような特別な漕ぎ方をする。独特の三角形の帆を揚げてもよく走る。1隻のボートにはハンター1人と水夫4人で1組となり乗り込む。この組は終始[メンバーが?]変わらず3人の水夫が6本のオールを漕ぐ[残り1名の水夫は不明]。
 乗組員の歩合金はハンター1人でオットセイ50頭までが1頭につき8円50銭、そのうちボートの水夫4人に各15銭を分配、50–100頭では1頭15円、100頭を越えると1頭25円となり、水夫への分配額も同様に増加する[金額の記述は無いが計算すると50–100頭26銭余り、100頭以上で44銭あまり]。記述では基準頭数による1頭あたりの金額は、捕獲頭数全体に及ぶとしている。100頭だと1500円、101頭では2750円[110頭の数字、2525円の間違い]と。この方式があるため、なるだけ全員が100頭以上を捕獲したように調整したとする。船長とナビゲータは全数量に対して1頭3円としている。ラッコはオットセイの2.5倍。
 船内の描写も少しある。食事は切乾大根とオットセイの肉が主体。上陸の機会には草を採り、陸でキツネや小鳥を撃って食事の足しにした。

カナダの同業者の視点

ベーリング海の「害虫」
 日本のオットセイ猟の様子はどのように見られていたか。その手掛かりがブリティッシュコロンビア州の州立アーカイブ(BC Archives)に保存されたカナダのオットセイ猟船の乗員のインタビューである(CALL NUMBER: T1650:0004 track 1 SUPPLIED TITLE OF TAPE(S), Item T1650:0001 - 0004 - Max Lohbrunner interview)。CBC[Canadian Broadcasting Corporation カナダ放送協会]の「The Seven O'Clock Show」のために収録されたインタビューで、1962年と推定される。1907年頃のベーリング海での日本のスクーナーとの関係や競合について語ったもの。そこで語られる日本の猟船は、猟場を知るためカナダの猟船を追ってくる、法律で禁止された夜間発砲をする、害虫みたいなやつだという徹底した悪評である。

船主から見たオットセイ猟業

経営者による講演記録
 経営者の視点での記録は少ない。1964(昭和39)年に市立函館図書館での講演に「家業の海運と漁業の思い出話」という漁業の実業家が親の代の事業として話した講演録が残されている(函館市中央図書館蔵「函館郷土史研究会啄木を語る会函館植物研究会講演 第4集」)。これによると遠洋漁業奨励法の補助金をもらうため、事業者は捕獲数については採算すれすれの報告をしていたが、実際には非常な利益があった匿名組合でやった場合に1年に10割の配当が2–3回あったと述べている。
 出猟海域は「春先が沿海州から日本海の朝鮮の北方、北海岸、それから佐渡近海、5月から太平洋の方へでまして、ずっとコマンドルスキーとかアラスカ方面」と述べている

遺品が現存する唯一のオットセイ猟船「開盛丸」

左:シトカ歴史博物館で展示されている開盛丸の遺品
右:シトカの海岸に設けられた開盛丸の記念碑には錨がある
 ラッコ船に関するネット情報では「開盛丸」が目立つ。これは現在の宮城県塩竈[しおがま]市を母港とするオットセイ猟船で、東南アラスカで誤って拿捕されたのち、中心都市シトカで係留中に沈没した。ところが再開発で船体の一部が見つかり、船の掘り出しはされなかったが、積荷などの遺品が発掘されシトカ歴史博物館(Shitka History Museum)で展示されている。資料の一部は里帰りして、塩竈市に寄贈展示されている。発見場所にはアラスカ在住の日本人や乗員の関係者の尽力で記念碑が建てられ、錨が展示されている。
 それだけでなく乗員の日誌や手紙も多数保存され、開盛丸の遺品とともに塩竈市民図書館4階にある「タイムシップ塩竈歴史展示室」で見ることができる。

ラッコ・オットセイ猟業に関わる法令の変遷


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