今を去ること百九十年余り、江戸時代後半の文化四年(一八〇七)、幕府は東北諸藩に蝦夷地(えぞち)警備を命じ、斜里海岸の守りは津軽藩が担うことになった。この年は例年になく寒さが厳しく、急な命令で出発した藩士たちは冬の備えも不十分だった。そして斜里警備にあたった藩士百名のうち、実に七十名以上が命をおとす大惨事「津軽藩士の殉難事件」となってしまった。死因の多くはビタミン不足による浮腫(ふしゅ)病と考えられている。
斜里のねぷたは事件の犠牲者への慰霊の意味を込めて始められた。
最初にねぷたが運行されたのは昭和五十八年のこと。この年交わされた弘前市との友好都市の盟約を記念して、夏祭りの演じ物の一つとしての運行だった。弘前からは民俗芸能保存連合会が応援に来てくれた。翌年から祭りは町民の手で続けられ、ねぷたも地元で製作されている。
現在、ねぷたは知床博物館で保管され、一般の観覧者も見学ができるようになっており、たいへん人気が高い。とくに海外からの見学者に絶大な効果がある。いかにも日本らしさを感じさせるからだろう。
十七回目となった「しれとこ斜里ねぷた」。今年も七月二十三日から二十五日までの3日間、知床の夜を熱くする。