半澤中(半沢中)(はんざわ・ちゅう、1883〜1942年(明治26〜昭和17)は斜里町に生まれ、1925年(大正14)樺太に渡り、敷香町で写真館を開業し、写真をとおして樺太北部の自然や産業、ウイルタやニブフなどサハリンの先住民族の生活を積極的に紹介しました。これらの作品は、みやげ用のプリントや絵はがきとして販売され、現在まで先住民族の生活記録を伝える資料として出版物などに繰り返し使用されています。ところが、半澤の作品は、無記名のまま博物館に展示されたり、報告書や写真集に掲載されることが多く、個々の写真については、場所や年代、被写体などに関する撮影データが整理されていない状態にありました。そこで、半澤の作品リストを作成し、ライフヒストリーの概略を作成したものです。
なお調査には文部省科学研究費補助金(奨励研究B)の助成を受けました。
調査の結果、根拠を持ち半澤の作品として判断されたもの89点が得られました。作品の根拠の区分は、知床博物館所蔵の組写真37点、スタンプが押された販売写真27点、絵はがき29点、親族所蔵写真3点でした(複数根拠のものあり)。内容は、樺太アイヌ2、ウイルタ22、ニブフ10、ウイルタまたはニブフ12点、その他の先住民族4、トナカイ9、産業と敷香市街14、海豹島7、風景その他9であり、ウイルタを被写体にしたものが多かった。論文の作品リストには、半澤ものと推定された写真26点を加え、115点の作品を収録しています。
1)初出年代
出版物から得られた初出年代は、昭和2年(1927)が2点、同5年(1930)8点となり、本文の記述から『樺太奥地案内の栞』(敷香郷土研究会1930)の説明用の写真と考えられる知床博物館所蔵の組写真が初出となる20点を加えた30点が、1927〜30年の間に撮影されたものと考えられました。これは根拠の得られた作品の3分の1にあたります。
2)撮影場所
作品の原題に記載された撮影場所は、敷香(市街)、幌内川、多来加、振戸山麓、オタス、国境標点第一号、半田、海豹島、中幌内川、東樺太漁業株式会社の8カ所でしたた。出版物の記載、余市町図書館「市川文庫」所蔵写真の但し書きなどからは、上敷香、中敷香、敷香川、ダリー、気屯、萩屋、多来加湾北岸、東多来加、留久志、第三天測点の10カ所が得られました。
3)被写体の説明
論文に収録した作品リストに記載しています。現在このサイトには未収録です。
4)原題
原題は、65作品について得られました。また、販売写真の裏面に押されたスタンプの番号は、27個が得られ、最小番号は5、最大は99でした。同一の作品に異なった番号が記されたものはなく、一部の番号は知床博物館所蔵の組写真の番号と共通していました。聞き取りでは販売写真は約100点ということですので、ほぼ一致しており、一連の番号は、通し番号を用いた作品整理番号と考えられました。
1)樺太行前:明治26年〜大正14年(1893〜1925年)
半澤中は明治26年(1893)11月16日、紋別郡十ヶ村戸長を務めた半澤真吉(はんざわ・しんきち)の三男として斜里に生まれました。半澤の学歴、職歴とも詳細は不明ですが、明治42年(1907)に斜里の代用教員を依願退職した辞令簿が残されています。その後、東京に移るが関東大震災で罹災、斜里に戻り、結婚、新居を構えました(半沢公園があった場所)。写真館を開き、現・清里町札弦にも売店を出店しています。大正14年(1925)頃、彼は単身樺太に渡り、翌年、妻を呼び寄せ、敷香での新生活を始めました。
5)帰国:昭和16〜17年(1941〜1942年)
昭和16年(1941)、撮影機材や撮影済みのフィルム、家財道具などを敷香に残して半沢は病気療養のため家族を連れ千葉県館山市に転居しました。写真館は、スタジオ写真のみの営業として本店と支店を継続、オタス出張所は閉鎖され、その後、軍の演習施設建設により取り壊しになったといいます。一方、半澤は肺炎の症状悪化により昭和17年(1942)に死没しました。昭和20年8月20日、ソ連軍の侵攻を前に、敷香市街に火が放たれ大規模な火災が発生、半澤写真館も全焼しました。そのため当時のフィルムやノート類、書類などもすべて焼失しています。焼け跡には大量のガラス乾板が溶け出し、山のようになっていたと伝えられています。
宇仁義和. 1999. 樺太敷香の写真家・半澤中の生涯と作品リスト. 知床博物館研究報告, 20: 61-84. (斜里町立知床博物館公式ウェブサイト/モノクロ2階調 PDF 1.9MB)、オリジナル写真グレースケール 画像PDF 5.3 MB
*北海道新聞 1986年12月18日夕刊「歴史写真館」(桑嶋洋一記者)でも特集されています。
UNI Yoshikazu: unisan@m5.dion.ne.jp
HANZAWA, Chu (1893-1942) was a photographer in the northernmost region of the former Japanese territory of Sakhalin, which had been called Karafuto before the Second World War. His photo studio was in Shisuka, the Japanese name for Pronysk, and he also had a branch shop in the designate settlement メOtasuモ. This research has produced the first compilation of Hanzawaユs work. 115 photographs are included; 89 of which are proven to be his or his studioユs work, and another 26 which are presumed to be so. The pictures which have been definitely proven to be taken by Hanzawa include 2 of Ainu; 22 of Uilta; 10 of Nivkh; 12 of either of Uilta or Nivkh; 4 of another natives; 9 of reindeer use; 14 of industry and Shisuka-town; 7 of Turreny Island; and 9 photographs of landscape or other. Some of his pictures were sold as prints and postcards as souvenirs for Japanese tourists; some were printed in at least 39 books published by the local government or private publishers; and some photographs have been exhibited in museums such as the Sakhalin Museum.
Reference: Uni,Y, 1999. HANZAWA, Chu: Photographer in the former Japanese territory of Sakhalin; his biography and a compilation of his work. Bulletin of the Shiretoko Museum, 20: 61-84. Shiretoko Museum, Shari.