明治大正期の沖縄県の公式統計である『沖縄県統計書』に現れた捕獲記録と同時代の文献を利用して、沖縄県のジュゴン個体群について明治大正期の具体的な分布地域と減少過程を考察した報告です。
用いた資料は、沖縄県立図書館所蔵の『沖縄県統計書』明治27年(1894)〜昭和15年(1940)版で、ジュゴンと考えられる漁獲物、すなわち「海馬」または「需艮」の統計項目を整理しました。分布に関する知見や捕獲方法などは、『水産調査予察報告』の第1卷第1冊(沖縄県)と同第2冊(奄美諸島)、大正元年の整理と考えられる『沖縄漁業調査書(二)宮古郡・八重山郡漁業調査書』(沖縄県立図書館蔵「ホーレー文庫」)からジュゴンに関係する記述を引用しています。
図1.『沖縄県統計書』(明治27年〜大正5年版(1897-1916))に記録されたジュゴン捕獲場所.黒丸:明治27〜37年(1894-1904)に捕獲が記録された漁浦(浜浦),大きさは期間中の捕獲数の合計を示し(大):30頭以上の捕獲・(中):10〜29頭の捕獲・(小):1〜9頭の捕獲,太線で示した海岸線:明治38年〜大正5年(1905-1916)に捕獲が記録された間切(村)の海岸線,点線:郡の境界.現在地への比定が仮定的な地名は下線で示し,比定できなかった地名はカッコ内に入れ該当する郡の区域に示した.なお、宮古諸島の捕獲数は前南と宮古浜の合計、八重山村の海岸線は範囲が郡全体におよぶため,図中には示していない.
結果は、「統計書」には、明治27年〜大正3年(1894-1914)に「海馬」、大正4〜5年(1915-1916)に「需艮」が記録されていました。明治27〜37年(1894-1904)は頭数で記録され計170頭1,592.9円、期間中の年平均捕獲頭数は約15.5頭ありました。明治38〜大正5年(1905-1916)は斤(=約600g)で記録され、計20,522斤(約12.3トン)897.45円でした。捕獲地域は、沖縄本島東岸に加え、現在はジュゴンが分布しないか僅少とされる西表島・石垣島・宮古島・沖縄本島西岸・同島南端部にも捕獲記録がありました(図1)。
「統計書」のなかで八重山諸島は、もっとも長期間をカバーし、そこに記録された捕獲数も最多であった。明治27年〜大正5年(1894-1916)に至る23年間のうち16年分の記録があり、捕獲頭数が記録された同27〜37年(1894-1904)までの9年間(同31年と33年を除く)に石垣島で48頭、西表島で51頭、合計99頭の捕獲が記録されていました。これは期間中の捕獲地域が判明している県全体の捕獲数143頭の約70%にあたります。
以上の結果から捕獲数が分布と個体数の反映と仮定すると、個体群の減少経過は次のように推測されました。
沖縄でのジュゴンの捕獲は先史時代から続き、近代以前の捕獲数は持続可能なレベルだった。明治21年(1888)の時点でも西表島から奄美大島の範囲に広く分布し観察例も多かった。しかし、八重山諸島では明治20年代末から同40年代始めに(1890-1910年頃)多いときには年間20頭を越える捕獲が続き、個体群は明治末年までに相当程度縮小した。沖縄本島周辺でも各郡に分布していたが、明治35-39年(1902-1906)に年間10頭前後捕獲された後、同43年以降の年間捕獲数は本島南端部で幼獣1頭程度の捕獲に縮小した。宮古諸島での経過の詳細は不明だが、大正2年(1913)を最後に捕獲がなくなった。八重山諸島では同3年(1914)、沖縄本島周辺でも同5年(1916)を最後に捕獲記録は途絶え、沖縄県のジュゴン個体群は、第二次世界大戦を待たず大正時代始め(1910年代中頃)までに各地で僅少となり、ジュゴン漁は廃止された。
当時は沿岸部での大規模開発や大量の定置網の設置はなく、浅海の環境破壊を引き起こした自然災害も知られていないことから、沖縄県のジュゴン個体群の減少要因は、明治27-37年(1894-1904)の11年間に少なくとも170頭、明治27年〜大正5年(1894-1916)の23年間に推定で最低300頭前後を捕獲した伝統的漁業によることが大きいと推測される。
引用文献は別ページです。
宇仁義和. 2003. 沖縄県のジュゴン捕獲統計. あじまぁ, 11: 1–14. 名護博物館, 名護. pdf 4.8 MB
(お詫びと訂正)本論でジュゴンを「儒良」と表記していますが、正しくは「需艮」です。