北海道大学教育学部「同窓会だより」への寄稿(2004)

同窓会向けに個人史を語ったもので,とてもはずかしい文章です.本来は先輩方に笑って読んでもらうのが目的ですが,40歳も近づいてきたので,若者向けに説教垂れる代わりに公開にふみきりました.学生の態度振る舞い考え方に「喝」を入れたくなる歳になったということですな.

近況報告

91年卒,教育社会学,宇仁義和

みなさま,ごぶさたしています。何年か前に新入生向け学部パンフレットに地方博物館の学芸員に職を得た先輩ということで寄稿しておりますが、昨年末に転職してしまい賞味期限切れとなっております。高校卒業まで同じ場所に住み、家から出たくて進学を理由に京都から北海道に来たのまではよかったのですが、その後は紆余曲折そのものの人生を送る羽目になりました。そこで近況報告と長い助走期間の物語におつき合いください。

まず入学は理III系だったのですが、専攻を社会学系か生態学系か迷っており教養段階で決定するつもりでした。理由は環境保護の仕事がしたいからで、それには理系文系両方の知識が必要、死語となった学際的研究を志していたのです。子どもの頃からテレビでは「青い地球はだれのもの」と歌が流れ、サリドマイド被害者のドキュメンタリーやスモン訴訟の映像、ニュースでは森永砒素ミルク、カネミ油症事件、四日市ぜんそく、と公害列島の最中したので、マスコミ経由の思考回路では当然の選択でした。出した答えは社会学で、進学は文学部行動科学科あるいは農学部農業経済学科を予定しました。ところが移行点が思った以上に低く進学先は薬学部となってしまい、一度は覚悟を決めて勉強するかと思いきや若気の至りで講義中に内職をするようになり挫折。転部を認めていた教育社会学講座に居候をはじめ、翌年転部、卒業となりました。

さて、卒業すれば就職です。転部した後に道内の自然保護団体の事務局の専従職員をしていたため、このまま団体を育てて喰っていけないかなど活動家的発想をしていたのですが、2回目の4年生のときに知床で国立公園のエゾシカ生態研究とその自然教育への応用という委託調査があって、教育部門をやらないかという誘いを受けました。今から思えばこれが人生の転機で、2年間知床通いを続け、その間にヒグマ捕獲作業や子どもの自然教室、登山ガイド助手なども経験し、本来業務のエゾシカ観察プログラムも立ち上げることが出来ました。じつは大学院にも進学したのですがちっとも大学におらず、9月に開館する標津サーモン科学館の飼育バイト、そして12月からは知床博物館で臨時職員をしていまい、そのまま斜里町に就職しました。

ちいさな町への就職には迷いもあったのですが、標津の職場で「研究が一生のテーマでないなら就職しなさい。いま(当時24才)就職しないと30才までないよ」と諭され悪魔に魂を売りました(これは就職した当時にプー太郎仲間がくれた言葉です)。92年4月の採用後は企画課に配属、広報と国土法を担当、町民意向調査や環境意識調査も手掛け、町村バブルの名残もあってイベントも多くそれなりに仕事は面白いものでした。防災と災害時の本部機能も所轄しており、配属して1年目に斜里町始まって以来の洪水を経験、94年にはこれも町史上最大の北海道東方沖地震の対応に追われました。どちらもほんのわずかな道路の高低や地盤の違いによって被災の程度が劇的に違っており、結局、被害が大きいのは低所得者。地震も洪水もなんて不公平な災害なんだろうとしみじみ思ったものです。

95年10月に念願かなって知床博物館に異動。歴史民俗分野を担当することになり、はじめは講座や行事をこなしているうちに1年が終わっていましたが、樺太の写真家の追跡とアザラシ産業の調査を足がかりに仕事のスタイルが出来るようになりました。研究費で町の予算はありませんが、研究助成金を何度か得て道内はもとより首都圏、関西、九州、そして沖縄でも聞き取りや資料調査が実現しました。統計や博覧会資料をもとにコククジラやジュゴンの分布復元がある程度できたのは成果と思っています。もっとも決め手となるデータが得られずなかなか発表できない課題もあって苦戦しておりますが。

そのうちに野生動物を歴史的に調べるというマイナーなテーマが、希少価値からか発表の機会も与えられるようになりました。とくに02年に国際捕鯨委員会から招待を受け韓国ウルサンで開催された作業部会に出席したのは自分にとって大きな出来事でした。はじめての英語での発表で、日本の鯨類学の大先生と共著の報告文書を作成したのですが、内実は論文指導を受けたようなものでした。このような経験は学部では得られなかったもので、作図作表の作法から手中のデータを限界まで活かした考察の貪欲さなど目から鱗が落ちる思いでした。

調査課題を見つけ、研究上の知己も得て、町立の博物館の学芸員でありながら国際会議にも参加することもできて、ようやく研究者として歩み始めたと思った矢先、再び転機が訪れます。03年4月辞令、保健福祉部保健課高齢者福祉係を命ず、介護保険担当。係長候補という年齢とコンピュータの知識を買っての配属。器用なことは災いします。週休二日が保証された役場職員、5時から男で研究にいそしむ道もあったのですが、12月末日で日本の日常を演出する地方公務員を辞職しました。役場には11年以上居たわけですが、就職を諭されたとき「10年を単位に人生を考えるのも悪くない」との助言?もあって正直に実行したという面もあります。現在は、個人事業主で調査研究と執筆などしております。名刺の裏には「オホーツク海沿岸地域の歴史研究、野生動植物、自然環境の歴史調査、海生哺乳類の生態と漂着状況調査、地方博物館へのコンサルティング」と書いていますが、実際に収入になっているのは原稿料がほとんどで、金額もわずかですので何か仕事がありましたらどうぞよろしくお願いいたします。博物館関係では、網走にある東京農業大学オホーツクキャンパスが本学世田谷の博物館で行なった企画展示会の助言及び展示作業員を経験しました。

ながなが身の上を述べましたのは、経歴を理解している方が自分以外にだれひとり居らず、かみさんもよくわからずに一緒になったようなので開陳しておく必要を感じたからです。一応、野生動物関係者のはしくれですが、この分野は出身が農学部や獣医学部、水産学部がほとんどで、文学部は行動科学科という変わり者がたまにいますが教育学部というとピンときません。では、道内で幅を利かせているクマ研(北大ヒグマ研究グループ)、ゼニ研(帯広畜産大学ゼニガタアザラシ研究グループ)かというとそうではない、自保研(北大自然保護研究会)も違う。「宇仁さんて謎なんですよね」などと面と向かってよく言われます。同窓会のなかにもそのような思いをお持ちの方がいらっしゃるのではないかと考え、この場をお借りして説明させていただいた次第です。ホームページもございますのでご笑覧くだされれば幸いです。
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