北海道新聞夕刊文化面掲載(2004.3.11)

アザラシと人間の関係 利用の歴史に思いはせ

アザラシ猟の成果  少々ショッキングな写真は、獲物を満載帰港したアザラシ猟船の様子である。今日の価値観からすれば、野生動物の商業捕獲は認めがたい行為だろうが、2003年に改正鳥獣保護法が施行されるまでアザラシには捕獲規制がなく、明治以降の北海道でも彼らを利用してきた歴史があった。
写真:多数捕獲されたアザラシ.昭和10年代に北海道オホーツク沿岸またはサハリンで撮影されたと見られる(斜里町立知床博物館蔵)

地産地消は当然
 北海道周辺に分布するアザラシは5種類。おもにオホーツク海と襟裳岬以東の太平洋に分布する。そしてこの地方の開拓期、生活の必需品の一部はアザラシから生み出されていた。厚く水に強い皮は細長く裁断してかんじきの締めひもや馬の手綱に、また、冬でも凍らない脂肪は食用油や照明用の灯油に用いられたほか、馬具の保革油や造材用の綱の凍結防止剤としても使われた。
 捕獲は流氷の時期に猟師が手こぎの船から鉄砲で仕留めることもあったが、夏でも砂浜にアザラシは普通に上陸しており、近くの大人や子どもが棒でたたいて捕まえることも普通に行われた。捕獲されたアザラシは地元でなめして加工する。毛皮からは手袋や長靴、カバンも作られた。戦後も含め開拓時代は使える物なら何でも使う地産地消が当たり前。アザラシも例外ではなかった。

「トッカリ」とも
 ところが戦時を挟んだ昭和10〜20年代は状況が変わり、アザラシは工業原料として大規模に捕獲されることになる。掲載写真も当時のもので、肉はソーセージに加工され、脂肪はせっけん、脚ひれはゼラチン、骨や内蔵は肥料の原料とされた。加工品の材料調達が目的なので小型のワモンアザラシも、皮が裂けやすいクラカケアザラシも分け隔てなく捕獲された。
 当時、アザラシ漁の基地となったのは網走で、北海道の、つまりは全国の産出の約九割を占めていた。その様子は連合国軍総司令部(GHQ)天然資源局の調査員が、日本のアザラシ猟船は四十一隻、年間捕獲数は六千頭以上と報告している。昭和20年代中頃の、地元の網走新聞には「獲れたゾ!トッカリ 初漁で幸先よい四頭」「海獣を一網打尽!捕獲戦今や高潮」などの見出しがおどり、日本海獣や北洋海獣といった勇ましい名前の企業が操業し、「トッカリ景気」に沸いたという。なお、トッカリとはアイヌ語でアザラシを指し、現在も親しみを込めてこう呼ぶ人も多い。

漁は突如終了
 戦後のアザラシ景気がしぼむのは早かったが、北海道観光がブームとなった昭和30年代以降は、実用品ではなく奢侈(しゃし)品やみやげ品としてのアザラシ毛皮製品が登場する。その主役はゴマフアザラシで、同じ模様が二つとない斑(ふ)入りの色合いが好まれ、財布やハンドバッグ、和装用のはきもののほか、本物の毛皮で作られた小さなぬいぐるみのアザラシも人気を得た。優良道産品にも認定され、アザラシ製品は北海道のみやげ品として定着する。
 この時代になると、アザラシ猟は流氷期に木造船で北海道沿岸で操業する形態から、去って行く流氷を追いかけ鉄の母船で遠くサハリン東岸沖にまで遠征するようになった。そこまで行くのは冷たい海ほど毛皮の品質が良いためで、最高級品は青く輝くような毛皮だったという。
 好んで捕獲されたのは、白い産毛から成獣の毛に生え替わった直後の当歳で、業界用語でギョクシャという。これはサハリン先住民のウイルタ語を語源とするものだ。一航海は数週間に及び、流氷に閉じ込められる事故や遭難もたびたび報じられている。
 しかし1977年、旧ソ連の二百海里専管水域の設定によりオホーツク海のアザラシ猟業は突如終了する。沿岸域での小規模な捕獲は続いたが、現在のアザラシ製品のほとんどは、北大西洋のタテゴトアザラシ製である。
 野生動物を用いた産業などというと前近代的な印象を受けるが、北海道のアザラシ産業の最盛期は昭和40年代で高度経済成長と重なるわずか30年ほど前の話だ。幸運にもアザラシと出会う機会があったなら、過去のできごとに思いを巡らせてみてほしい。もはや生活の実感から彼らを知ることはないのだから。


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