日本歴史地名大系「歴史地名通信」49号掲載(2005)

知床−自然・歴史・生活

知床の自然〜地質、動物、植物

知床半島は千島火山帯に属する、オホーツク海に突き出た細長い半島である。長さ約70キロ、付け根の幅約40キロで北海道の東北端に位置する。平らな土地は少なく、主稜線を形成する知床連山は1500メートル級の山々が一列に並び、最高峰の羅臼岳は標高1661メートル、河川は約90本ある。半島基部の斜里川と忠類川(ちゅうるいがわ)がある程度の流域規模を持つが、残りのほとんどは主脈と直行する形で海に駆け下りる長さ20キロに満たない小規模な渓流である。地質学的研究によると知床半島の生い立ちは860万年前の海底火山の活動に始まったという。海底火山は噴出物を700メートルの高さまでもち上げた(→正確には、陸上の火山活動によってもち上げられた)。陸上の火山活動が開始されたのは50万年前のこと。岩尾別台地(→幌別台地の誤りでした)を覆い尽くした羅臼岳の溶岩は8万年前に噴出、その後も活動は続き、直近の噴火はわずか200年前(→一度出された見解でしたが,撤回され,現在は700年前の噴火が最新とされています)ということが最近の調査の結果判明し、羅臼岳は活火山に区分されることとなった。

知床連山のうち特筆すべきは硫黄山(知床硫黄山)である。この火山の活動は純度の高い融解硫黄を吹き出すことで知られ、安政年間(1858-60)には会津藩による採掘が試みられている。明治7年(1874)には開拓使お雇い外国人ライマンが現地踏査を敢行し、本格的な操業は明治時代と昭和前期の二度行なわれた。昭和11年(1936)の火山活動と採掘の様子は北海タイムスが「硫黄十七キログラムトン噴出 一夜に五十万円 北見知床に俄か景気」と伝えたほか、更科源蔵が「知床の山、知床の水」という紀行文で紹介している。また、当時弟子屈(てしかが)在住でのちに建築写真家の草分けとなる佐藤翠陽(さとう・すいよう)が鮮明な写真で記録している。現在の硫黄山は活火山といえども休止状態にあり、硫黄を噴出した新噴火口に立ち入り硫黄の針状結晶が観察できる。川そのものが温泉として入浴可能で観光客に人気の的のカムイワッカ川もこの火山のお陰でできたものだが、噴火当時は流れ出た硫黄で河口部まで谷が埋まった。この山には採掘当時の遺物を見ることができる。火口には搬出用の軌道跡、登山道には硫黄集積場跡、海岸近く崖上には運搬リフトの支柱の石組みが残り、当時の食器やビールビンも見つかる。硫黄の採掘は同14年まで続けられ、カムイワッカの滝近くの海岸から直接船に積まれ出荷された。この場所はウトロから出航する知床観光船の折返し場所で、支柱の石組みは船からも確認可能である。

半島の主稜線は硫黄山から先は下げ、ルシャ乗越しに達する。ここは半島で最も低い鞍部で、アイヌが通行路として利用した場所だ。斜里側はルシャ川、羅臼側はルサ川とおなじルエシャニ(浜へ降りていく路)というアイヌ語起源の川の名前が今でも用いられる。ルシャ川はヒグマが高密度に生息し、漁業番屋の近くにも頻繁に現れるが、クマも漁民も何事もないかのように応ずるという人とクマとの信頼関係が築かれている奇跡のような場所だ。ヒグマは知床の野生のシンボルで、生息密度は北海道随一であり、つまりは世界最高ではないかともいわれる。もちろん日本最大の陸上動物で(上陸中のトドのオスは1トンになるが)あり、かつては体重600キロの大物がいたとも紹介される。ただし近年の知床での実測値ではオスで300キロ台が最高、メスは100キロ前後の個体がほとんどである。ヒグマは北海道の象徴であり、知床では現実の自然の魅力とともに課題を投げかける。

開拓期以来の北海道では、ヒグマは見かけたら駆除するのが通例であった。自然の領分に人間が入り込んだために発生した事件という見方は現在のもので、開墾は人間の世界を広げる行為そのものであって障害物は除去する必要があった。問題は自然対人間は闘いの関係から、勝者が敗者に共生の道を開く時期が遅れたことにある。昭和30年代後半から全道的にヒグマの被害が頻発し駆除頭数も増加、知床でもおなじ状況にあり同37年(1962)には半島基部の標津町(しべつちょう)では25頭にものぼった。そのため北海道は捕獲に都合の良い残雪期の「春グマ駆除」を全道で開始し、これは実質的な絶滅政策とも評される。国立公園内も制度的に駆除や狩猟を制限してはいないので、知床でも全域が鳥獣保護区に指定される同57年まで捕獲が続いた。転機が訪れたのは平成になってからで、北海道は平成2年(1990)に「春グマ駆除」制度を廃止した。知床ではそれに先立ち昭和50年代後半から「春グマ駆除」を地元猟友会が自粛、同63年には学生時代から知床に通い詰めたヒグマ研究者が斜里町職員となり、全国に先駆けクマ対策を行政サービスとして開始した。その事業は知床財団に引き継がれ、ヒグマの王国に年間150万人を越える観光客を迎えても事故が皆無という管理体制を実現している。

さて、ルシャ川より先の海岸は古い海底火山由来の溶岩が露出しており、長い年月の間に浸食を受けた奇岩が多く、想像力をはたらかせた名前が付いている。獅子岩や蛸岩、眼鏡岩、観音岩といった即物的な名前もあるが、松浦武四郎も記録した義経伝説にちなむ名前やトドやアザラシに関する岩があり、アイヌ語地名の宝庫としてもなかなか楽しいところである。秘境といわれつつも、こと細かにアイヌ語名称が残されているのは小舟で行き来した生活の場であった証拠で、現在斜里町域のウトロやルシャ、知床岬、羅臼側のルサやサシルイにはコタン(集落)があった。それどころか知床岬の台地上には続縄文文化やオホーツク文化期の大集落が見つかっている。

知床岬は交通機関が無く、観光目的での立ち入りが規制された特別な場所だ。自然の聖地の一つといえるのかも知れない。しかし、その植生は急増したエゾシカのためにこの15年の間に一変してしまった。北海道のシカは明治時代初期にはシカ肉缶詰工場を建てられ海外に輸出するほど多く生息していたが、乱獲と越冬地の日高・十勝地方に降った大雪のために激減してしまう。そのため大正9年(1920)から第二次世界大戦に至るまでは禁猟となり、その間に個体数は徐々に回復し分布も拡大、昭和60年代には道東域(日高山脈・石狩山地・北見山地の東側)で農業被害が社会問題となるまでに至った。もともとシカの仲間は急激な増加と減少を繰り返すものらしいが、北海道の場合はオオカミという天敵が絶滅し、開拓とその跡地が良好な餌場を提供、さらには暖冬と少雪という好条件が重なり爆発的な増加を見た。知床半島周辺でも農業被害が報告されているが、後述する世界遺産登録に関係する問題は植生の破壊である。

エゾシカは餌が豊富な時には、その選択制が高く、キク科のハンゴンソウなどほとんど食べない特定の種がある。夏の知床岬ではセリ科の高茎草本の白い花が目立ったものだが、ことごとくシカに食べられてしまい現在ではハンゴンソウの黄色いお花畑となってしまった。森林への影響も甚大で、オヒョウやハルニレの内皮、つまり形成層は春先に好んで餌にする。形成層を一周ぐるりと剥がれた木は枯死を待つのみで、知床では樹齢数百年と見られる大木を含めオヒョウやハルニレの木は、目に付く範囲のほとんどが枯れてしまった。枯れ木は土壌を固定する力を持たず、斜面の崩壊まで起こしている場所もある。さらに、ニレ科樹木が消滅すると、シカはシナノキやイチイ、はてはイタヤカエデやミズナラまであらゆる樹木を餌として枯死と土壌崩壊を招くまでになった。

知床の自然の貴重さの一つが原始性が高い森林であることは間違いない。その森がエゾシカによる破壊の途上にある。これを自然の営みとして放置しておくのか、それとも積極的にシカ管理を行って森林を保全するのか、難しい設問に回答しなければならない。アイヌの伝承にはシカが森を破壊してしまう話や、アツシの原料となるオヒョウの木がシカに食べられて無くなってしまう話は知られていない。大木の存在自体がシカによる森林破壊が少なくともこの数百年は無かったことを証明している。

アイヌの生活

北海道では史料が得られる歴史時代に入るのは道南(渡島(おしま)半島のほぼ南半分)で中世以降、道東では近世に入ってからのことで、知床の産物などの記録が現れはじめるのは近1789年(寛政元年)のクナシリ・メナシの闘いの後のことだ。現・羅臼町(目梨郡(めなしぐん)にある)はこの闘いの場となったし、シャリ場所がソウヤ場所から分設されたのはその翌年で、現地のアイヌ社会に相当大きな影響があったのだろう。ただし具体的な生活の記録は幕末の松浦武四郎を待たねばならない。

近世のアイヌについて記録した文献は和人が残したものしかなく、しかも、この地にあってはそれも数少ないとなれば、当時を知る方法は発掘調査となる。しかし、知床半島の近世期のアイヌ人口は少なかったとみられ、発掘調査や文献から実証するのは非常に困難だ。ただ、ひとつ特筆すべきはアザラシの利用である。知床でアザラシの産出が多いことは松浦武四郎の『知床日誌』でも紹介されており、更科源蔵が古老からの聞き取りをもとに明治初期の様子を昭和30年(1955)刊行の『斜里町史』で報告している。

このことを裏付ける遺跡が斜里町で見つかっている。道路工事や農地改良に伴う緊急発掘ではあるが、斜里町も羅臼町でも調査は盛んで、近世アイヌ文化期の遺跡としては斜里町の遠音別川(おんねべつがわ)西側台地遺跡、オショコマナイ河口東遺跡、オホーツク文化や擦文文化の遺跡では羅臼町の松法川(まつのりがわ)北岸遺跡、オタフク岩洞窟遺跡、トビニタイ遺跡、斜里町のチャシコツ岬下B遺跡などが著名であり、トビニタイ土器に見るように知床の遺跡が先史文化の指標となっている例もある。そのなかで18世紀中頃、シャリ場所以前のアイヌ社会の遺跡と考えられるオショコマナイ河口東遺跡では、出土した鳥獣骨は魚骨と鳥骨、海獣骨が多く、なかでもアザラシ類が多いことが見いだされのだった。場所尾請負制度下の頃の遺跡からは、金属製品や陶磁器などの和製品とともに数多くの焼酎徳利も出土し、漁場労働の対価が酒で支払われていた証とも想像される。

風の半島

近代の北海道は開拓の歴史を歩む。知床半島も例外ではなく、大正時代にはウトロから川を一つ隔てた幌別台地(ほろべつだいち)と羅臼岳の麓の岩尾別台地までが開墾されることになった。移住者受入のために人家も少ない寂しい漁村だったウトロには駅逓所が置かれ、斜里との中間地点の知布泊(ちぷとまり)までは馬車鉄道の殖民軌道が敷かれた。しかし当の入植地は溶岩台地のため原生林の下は岩だらけの土地が広がり、水も得られず開墾は困難を極め、バッタの来襲で開拓の試みは挫折した。次いで昭和10年代におもに道内居住者の再入植、そして第二次大戦後は戦争被災者を中心とした入植と計3回の集団入植が行われたが、結局は農業を永続させることはできなかった。最後の居住者が斜里に引っ越すのが昭和40年代のことである。後日、この開拓跡地を乱開発から守るために「しれとこ100平方メートル運動」が展開されることになる。

いまでこそ都市と田舎との生活格差は小さくなったが、昭和30年代までの落差は大きく、知床の入植地ではなおさらだった。昭和33年(1958)に放映されたNHK「日本の素顔」では岩尾別の入植地が発展途上国かのように紹介された。日本は高度経済成長期の最中にありナベ底不況から脱出し岩戸景気に沸いていた。ところが知床ではジープでやっと通れる道路一本に生活のすべてを預ける開拓生活を送っている。すべて手作業人力での伐木、開墾、農作業。幼い子どもまで鎌をふるって牧草を刈り取る。ようやくバス路線が開通し暮らしが変わり、病院に行けるようになった。やってきたボンネットトラックには運転席の屋根にまで満載の人々。粗末な開拓小屋でのホーロー引きの食器での食事。もちろん電気はない。ここだけは明治の開拓と同じような生活を送っている、と。同39年放映の「新日本紀行」は羅臼の昆布漁が主役だったがイシイルカの突棒漁業も紹介された。ゆっくり走る漁船の船首に遊ぶイルカを手投げの銛で突く瞬間が映し出された後、「知床は弱肉強食の世界が息づき、人間でさえその中に入らないと生きていけない、無情なイルカ漁もここでは当然の出来事」というナレーションが付けられていた。現代的な知床案内の先駆け、戸川幸夫『野性への旅I 知床半島』(新潮社・昭和36年)の広告文にも「文明から隔絶された秘境の全貌を初めて世に紹介する」とあり、人が住む秘境あるいは原始郷のイメージが濃厚である。

たしかに人間にとって知床の自然は厳しい。その厳しさは何よりも風に由来する。島や海辺ではいつも風が吹いている。オホーツク海に突き出たこの土地も風が絶えることはない。とくに五月には南の高気圧がフェーン現象を起こし斜里平野に強風が吹き荒れる。ちょうど雪解け時で、昔は冬の間に落とされた馬糞が顔を出して飛ばされたため「馬糞風」と呼び(この呼称は今も生きている)、植え付けを終えたばかりのビートの苗を吹き飛ばす農業被害を元凶となった。現在では防風ネットの工夫などで全滅の被害は免れているが、畑から舞い上がった土で空が赤茶色に染まり、そのなかを鯉のぼりが勢いよく泳ぐ姿は昔も今も変わらない。天候が安定しないのも春の特徴で、とりわけ連休の頃は激しく変化し、夏日になったかと思えば大雪に見舞われたりする。

大規模な海難事故も春に集中して発生している。昭和34年(1959)4月6日には突風による大規模な漁船の遭難が発生し、羅臼町で89名が犠牲になる大惨事となった。この災害は翌年にロケされた映画「地の涯に生きるもの」でも再現された。森繁久彌が浜辺に並べられた遺体から息子を探す姿が前年の悪夢を思い出させ、浜はむせび泣きに包まれたという。また同29年は洞爺丸台風が来襲した年だが、オホーツク海では5月10日に死者行方不明者35名を出した防風雨災害「メイストーム」の記憶が鮮烈である。

夏のオホーツク海はおおむね凪(なぎ)の状態が続く。ところが知床沖は晴天時が油断できない。知床連山を駆け降りた南風はオホーツク海に抜ける「出し風」となる。山なみの峠ごとが風の通り道となり海は白波が立ち、とりわけ標高がもっとも低くなるルシャ沖一帯は強烈で船の往来の難所となり「ルシャの吹き出し」と恐れられている。またこの風が吹くとき斜里側では青空だが、羅臼は霧や地元で「じり」と呼ばれる小糠雨で包まれ気温も上がらない。夏の日照不足と低温は根室海峡側の畑作を不可能にしている。わずか幅20数キロという半島の東西で天候が違い、産業のありあかたまでをも決定している。

世界遺産へ

平成16年(2004)7月に現地視察を行なった国際自然保護連合のデビッド・シェパード保護地域事業部長はこの地の世界遺産登録についての質問に対し、自然のすばらしさと漁業や観光業の管理の必要性を示したうえで、世界の国立公園や鳥獣保護地域でも非常に特別な場所が選定されると述べた。知床は世界的に見て特別な場所といえるのだろうか。

世界遺産登録の要件は自然環境そのものと管理体制の両面が評価される。日本政府の推薦書にあるとおり、知床の自然環境は海域と陸域が一体となった生態系が保持されたうえに、流氷が到達する世界最南端という独自性がある。課題は管理体制の方にあり、知床半島の陸域は国立公園および原生自然環境保全地域、鳥獣保護区、森林生態系保護地域など幾重にも保護制度が適用され、ヒグマやエゾシカの管理体制、観光との調整の仕組みも整ってきた。ところが国内には海の自然を保護する制度や仕組みがほとんどなく、知床も例外ではない。海中公園というのがあるが、きわめて狭い範囲の海中景観維持が目的であるし、鳥獣保護区の制度は海面には及ばない(→これは誤りでした。干潟を目的に有明海などで設定例があります。おわびして訂正します。言うべきは「知床ではなぜか海面には鳥獣保護区の設定がなされなかった」でした)。今回の世界遺産の推薦には海洋生態系も含まれているが、推薦範囲は沿岸一キロと極めて狭い範囲に限られるうえ(→登録裁定前に「沿岸3キロ」に拡大されました)、保護や管理の仕組みが不十分だ。もちろんサケ定置網漁やコンブ漁の現場であり、捕鯨も行なわれている。一方、根室海峡を隔てた国後島や歯舞諸島には海の保護区があり、人間の活動には種々の規制が加えられている。当然漁業は禁止、船舶の接近行為にすら規制がある。

歴史を振り返れば知床は近世以来漁業の場となってきた。漁業を継続しつつ原生的な自然の保全を現代に至るまで実現してきたのだから、生産活動と生態系の保全が両立することを証明すべきだろうし、それを期待したい。将来は担保となる法制度も知床から生まれて欲しいものだが、沿岸には緊急を要する課題がある。漁業被害をもたらすトドやアザラシへの対応である。

トドはアザラシと同じく鰭脚類だがアシカ科に属する。身体は大型でメスで体重250キロ、オスでは1トンに達する。繁殖地は国内にはなく、サハリン(旧樺太)東海岸のチュレニー島(海豹島)、中部千島、アリューシャン列島などの無人島で、知床半島では羅臼側の根室海峡を中心に回遊してくる。ただしアザラシのような流氷の動物ではなく、氷を避けるようにシーズン前後にやってくる。問題は、トドが近年急速に数を減らしていることだ。そのためアメリカやロシアなど繁殖地を抱える国では保護政策をとっているし、国際自然保護連合でも絶滅危惧種に指定し、国際的には完全に保護動物の扱いだ。ところが、北海道では漁網を食い破られる被害や食害が社会問題となり、駆除が行なわれている。さらに根室海峡ではスケトウダラの漁獲が急激に落ち込み、かつては問題視していなかったアザラシでさえ害獣として扱い駆除までが考えられている。北海道以外ではほとんど話題にならない海獣類と漁業の共生策が知床の世界遺産登録の鍵を握っている。


日本の自然は知床といえども人為的影響を受けた歴史的自然であり、共生には積極的な関与が時として必要になる。現在あるすぐれた景観や生態系も一定の経済行為の影響下に成立あるいは存続してきたものだ。知床の自然が特別なのは、歴史的自然のなかに原始性豊かな生態系が保存されていたことだろう。それが二一世紀まで保持された世界でも特別な場所だと考えたい。
<文献目標> 宇仁義和.2005.知床−自然・歴史・生活.日本歴史地名大系「歴史地名通信」,49:31-36.平凡社.東京.


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