1987年4月14日、知床国立公園内の幌別川流域の国有林で木が切られました。その是非をめぐり国中を巻き込んだ議論が起きたことをご存じでしょうか。15年以上も前の出来事ですっかり忘れ去れた感がありますが、伐採から7年後の記事で紹介したいと思います。古い文章で、拙い表現が多々あり恥ずかしくもありますが、年代を補った以外は原文のまま掲載します。写真は後日掲載予定です。

RISE: Field Graphic Magazine in North Island 4号掲載(1994)

知床伐採問題その後−あの騒動はいったい何だったのか−

今から7年前、この地を舞台に繰り広げられた大騒動があった。言わずと知れた「知床伐採問題」のドタバタである。あれほどマスコミを騒がせたにもかかわらず、多くの人のなかで、その記憶はすでに風化しつつあるといっていい。その後、知床で何が変わったのか、それとも変わっていないのか。エコロジー・ブームの火付け役ともなったあの騒動を、ここで今いちど整理してみたい。

知床伐採についてはすでに多くの出版物があり、語り尽くされた感がある。ところが現在知床を訪れる旅行者や、仕事で斜里町に移り住んできた人、さらには野生動物の調査で知床に来る若者でも”あの伐採”を知らないというケースが多くなっている。あの伐採は国有林で行なわれた。国有林であるから木を切るのは当たり前である。問題は、伐採が国立公園で行なわれたことにあった。しかも知床であったから、原生林でシマフクロウが生息しているのではないかという期待から伐採反対運動が起こり、全国的規模で展開されたのである。

知床の森と国立公園

まずはじめに伐採地の森林について触れておく。知床半島は海岸線から高山帯までの広い範囲が原生的植生のまま存在しているところに重要な価値がある。その事実に気付いた研究者が、厚生省(この当時、環境庁はまだできておらず、国立公園は厚生省の所管であった)に要請をし、半島中央部より岬側38,633haが1964年に国立公園に指定された。ただし半島全域が原生的植生を保存しているわけではなく、海抜100〜200メートルの岩尾別台地や幌別台地ではかつて開拓が試みられた。開拓は失敗に終わり、放棄された畑や牧草地が、現在「しれとこ100平方メートル運動」の買取対象地となっている。問題の伐採が計画されていたのは、これらの台地に隣接する知床連山のすそ野にあたる針広混交林で、トドマツやイチイ、ミズナラやイタヤカエデなどで構成される「原生林」であった。この付近の森林は処女林ではなく、何回かの伐採(択伐=抜き切り)が行なわれている。が、植林された林ではなく、天然の森であることには違いない(騒ぎに最中はこの森が「原生林」であるかどうかという議論でも一騒動したのである)。

ところで、この付近の森は国立公園に指定される以前から林業が行なわれており、経済的価値を持つ森として我々の前にあった。林野庁としてはその延長線上で今回の伐採を計画したのである。現在の規則では国立公園内でも特別保護地区でないかぎり林業は制限付きで可能であるので(驚きましたか? 驚いてほしいのです)、法的にはなんら問題のない伐採計画であったのだ。ところが伐採は一部は実行されたものの、計画段階より空前の反対運動が発生。計画は途中で中止され、ついにはその付近の森が森林生態系保護地域の候補地にピックアップされて、林業の対象地から外されてしまう。この間わずか1年半。いったい何があったのだろうか。

知床伐採騒ぎの経過

知床伐採騒ぎを引き起こした国有林は、知床半島の中部西側、斜里町ウトロに近い国立公園内の森であった。実際の伐採は1987年4月14日に敢行された。が、伐採騒ぎはその約1年前、1986年4月21日付朝日新聞の署名記事「ナショナルトラストの地で、国有林伐採計画再び」に始まった。

記事では、知床国立公園内の国有林約1700haが向こう10年に渡って伐採され、のべ1万本の木が失われる。作業はその年の秋にも開始されると説明されていた。伐採地は斜里営林署(伐採のあと清里営林署に統合)の管轄であり、伐採計画は1986年に認可を受けた網走第5次地域施業計画に位置づけられたものであった。伐採の論拠として法的に問題がないことと、「老齢過熟木」を抜き取ることによって森に活力が蘇るという「若返り論」が示されていた。

伐採計画は、ジャーナリストの間で問題意識を持って取り上げられ、また地元斜里町の知床自然保護協会がいち早く反対を表明した。そして協会は反対運動を全道的、あるいは全国に広めることを狙い、北海道自然保護連合(当時は北海道自然保護団体連合)に運動のバックアップを要請した。その結果、道連合が運動の主役となり、ジャーナリストがそれを後押しする。それにつられて伐採反対の世論が拡大するという形で伐採が全国的に問題になり、大騒ぎとなっていったのだ。

たとえば伐採予定地に隣接する斜里町ウトロでは学生有志が自主的に集まり、テント村が形成された。この集まりは後に道連合が新聞を通して協力を呼びかけたため、存在を知った人たちが全国から集まり、後には知床伐採反対キャンプと呼ばれるに至った。道連合は当時運動の”プロ”を専従に抱えていたため、一般受けする宣伝が得意であった。知床伐採問題でも、反対運動を上手にパッケージして売り出すことに成功する。8月、札幌と現地斜里町でのシンポジウムの後、林野庁と環境庁の長官にあてた伐採廃止の「100万人」署名運動を開始し、伐採騒ぎのシンボルを創り出す、「特にシマフクロウが第二の”トキ”になることは明らかです」と。そして活動資金「知床募金」口座を開設する。これらは知床から遠く離れた人でも、自然保護のエキスパートでなくても参加できる運動で、知床の森を守るために何かしたい、せずにいられないという人の心を巧みに掴んだ戦略だ。知床募金は、翌年3月までに400万円近い寄付金を集めることになった。

このように知床伐採反対運動は,北海道自然保護連合の運動となっていった。少なくともマスコミはそのように報道した。知床伐採のニュースは、道連動の事務局を一つのステーションとして全国に配給されていたのである。人呼んで「知床記者クラブ」。当時の報道は過熱気味で、伐採計画の発表された1986年から翌年にかけての1年余り、新聞に知床の二文字が掲載されない日はないほどであった。当時の新聞の切り抜きが道連号の事務局に保存されているが、A4のファイルに7本ぎっしりの分量である。

一方、知床をフィールドにした野生動物の研究グループは1986年7月、北見営林支局に対し伐採反対の申し入れを行っている。また、研究者個人でも新聞を通して伐採計画の中止を訴える論文を掲載したりと、社会に発信する行動的な側面をみせた。これらの意見は実証的データに基づいた科学的な根拠を持つもので、道連合が行なう運動とは一線を隔てる内容があった。知床の伐採が動物に与える影響の可能性を述べ、日本における知床の自然の価値を示し、伐採中止を求めたものであった。しかし、道連合と研究者が手を組んで運動を進めるには至らなかった。

シマフクロウに終わった議論

伐採反対騒ぎは10月に入ると市民レベルから国会レベルの問題へと高級化する。環境庁長官と農林水産大臣とのトップ会談が行なわれたり、共産党の調査団が現地入りするという動きが見られるようになる。また参議院予算委員会で、当時の中曽根首相が知床伐採の実施について「あくまで慎重に、地元の意見も十分に聞いて進めたい」と答弁するなど、北海道の辺境の地の国有林が国勢の場で討議されるに至る。その結果、伐採の開始時期が当初予定されていた1986年秋から翌春まで持ち越されることになった。一時的ではあるけれども「勝利」と捉えられたことだろう。春までの間、動物調査が実施されることになったのである。

この調査は北大や東大などの研究者が北見営林支局から委託を受け「知床国有林の動物などに関する調査委員会」を組織し、1987年1月に開始、3月末に報告書の提出というもので、わずか3か月という短い期間やシマフクロウやクマゲラといった特定の動物に重点を置いた方法、結果の取り扱い方などが問題とされ、疑問が続々と提出された。しかし3月20日付の北海道新聞は「知床択伐にゴーサイン/鳥獣の生息に有用」との見出しで調査報告を報道し、「伐採予定地には『シマフクロウガ営巣したと断定できる根拠はない』よって択伐は問題ないと判断した」と報告した。実は、この記事の内容こそ知床伐採騒ぎの正体そのものだった。知床の伐採の可否を巡った議論は結局はシマフクロウという鳥の生息の可否に論点がすげ替えられてしまったのだ。

さて調査報告書提出2週間後の1987年4月14日、機動隊の監視のもと伐採が敢行された。伐採当日の現地はかなりエキサイトしたらしい。機動隊が登場し、上空ではヘリコプターが舞い、テレビカメラが回る。写真週刊誌で有名になった、木にしがみ付く「チプコ」が行なわれたのものこの日である。

課題は今も残されている

知床伐採反対運動は、国立公園内における国有林の問題を解決するには至らなかった。全国を巻き込んだ伐採騒ぎは、結局シマフクロウの生存という問題に矮小化してしまった。たしかに伐採反対運動の後、林野庁は森林生態系保護地域を新たな制度に取り入れ、知床の森もこの制度によって林業の対象から外されることになった。しかし、この制度は「手を着けないでそっとしておく」方式の保護区であるため、野生動物の管理を含め、生態系管理の視点に欠けている。また、手続きの問題では、国有林の施業計画の策定方法の問題が残されている。知床の伐採計画は、網走地域施業計画に位置付けられたものだが、この計画は林野庁が独自に策定できるもので、国会の場で論議を受けることはない。地元の以降は、自治体からの形式的な意見聴取があるだけだ。また、国立公園としての問題は、施策を方向付ける公園計画の改訂が延び延びになっていることがある。5年に一度改訂されるはずが、1984年から改訂されていないのだ。

歴史に「もし」は許されないが、伐採騒ぎによって全国が知床に注目しているとき、議論がもっと建設的な方向に進んでいればと悔やまれてならない。森林の環境問題を試験に考える絶好のチャンスだったのに、と。そうすれば、現在の自然保護運動の論拠も、マスコミの環境問題の取り上げかたもより進んだものになっていただろう。

いずれにせよ、知床の伐採騒ぎは自然に関わる人であれば誰もが語る物語となった。そして現在も課題を投げかけ続けているのである。
<文献目標>
宇仁義和.1994.知床伐採問題その後−7年前の騒動はいったい何だったのか− .RISE,4:42-43.ギミック.札幌.


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